双極性障害Ⅱ型の日々

双極性障害(躁うつ病)の日々の記録、その他

双極性障害と診断されるまで(下)

さて、ハイテンショーンでインドから帰国し、私は母に向かってこう告げます。

「インドの学校に行ってヒンディー語マスターする!学費と滞在費は住み込みバイトして貯める!」
母親、ポカーン。そりゃポカーンですよ。ヒンディー語なんて突然言われてもねぇ。そういう私は半年間もインドに滞在するし、何かやろうとヨガに行っては挫折したりしていたのですが、そうだ、これだけ何度もインドに来てるのに旅行者向けエリアの人としか話してないじゃん、ヒンディー語ができたらそこらのおばちゃんとも話せるじゃん!というシンプルな理由で、滞在中、月~金曜日個人レッスンを受けました。どこに行くにもすぐにメモができるようにノートとボールペンを持ち歩くという熱心さ。

現地に住んでいる友達も「来ちゃいなよ、留学しちゃいなよ、学費安いよ」と煽ってくれるので、もうその気満々で帰国しました。そして本当に住み込みバイトに行きました。住み込みバイトはバックパッカーならば一度は経験があるというくらいメジャーなバイトだったので、抵抗もなく、1年間働きました。途中、軽いうつが出現して、バスに揺られてメンタルクリニックにかかりながらも、ミッションコンプリーテッド!

面倒な手続きを経て、1年間留学しましたが、結局あまり学校には行きませんでした。それでも次の学年へ進むためのテストも受け、続行する気でいました。が、母親が体調を崩してまたすぐ日本を離れるにはしのびないな、という状況になったため、再び住み込みバイトをしながら過ごしているうちに、私が体調を崩して実家へ帰ります。この時はただの内臓の不調です。実家でぐずぐずしているとだんだんイライラが増してきて、「ええい、面白そうだから大阪へ住む!」と大阪の住居もとっとと決め、派遣会社を訪ねまくって仕事を決めました。

あれ、インドは?
大阪の家賃も格安だったし、2年くらい働いてまたインドへ行く気でした。
が。
普通の仕事って当たり前だけれど大変なんですよね。仕事が終わったら疲れ果て、休みの日は寝て潰すような毎日になり、インド再留学がだんだん遠のいて行きました。その頃にちょっといい感じの相手ができて、休みの日は彼の家で過ごし、平日はがんがん働いて気がつけば派遣社員契約社員へ格上げになり、こんな生活も悪くないか、と思っていました。

しかし、なぜ私の人生はこううまくいかないのか、いい感じの彼に突然「普通の友達に戻ろう」と宣言されます。へ?もう、へ?としかいいようがありませんでしたが、何だかんだで結論は保留になりました。その後、私はご飯が食べられなくなり、眠れなくなり、見る間に弱っていきましたが、それでももちろん仕事はしていました。1ヶ月半ほど経ったある日、仕事中に突然涙がこぼれて止まらなくなりました。「あ!壊れた!」すぐにわかりました。そりゃこれだけ何度も壊れてりゃわかりますよ。上司もびっくりして慌てて帰るように言われ、その翌日から仕事に行けなくなりました。結局この職場は休職→退職になりました。

私も慌ててあちこちのメンタルクリニックに電話をし、なるべく早く診察してくれるところを予約して出かけました。そこで大量のテストを受け、これまでの話をすると「あなたはあれだね、うつじゃなくて躁うつだと思うよ、これだけ上がったり下がったりしてるしねぇ…」と言われぽかーんとしました。だってうつは自覚しているけど躁なんて自覚したことないですもん。なのでずっとこの医師の診断は信じないで来ました。

この医師のもとに通うようになってから約半年間、あれこれあって、私は自分から転院を申し出て、近所の評判の良いクリニックへ行きました。今の主治医です。主治医はすぐに病名を言いませんでしたが、あっちやこっちへ提出する診断書を見ていると、やはり双極性障害のようで、この頃には自分でも波を自覚しはじめたので、私は単なるうつじゃなかったんだ……と諦めました。受け入れたというよりも諦めたというのが一番ぴったりくる表現です。

でも、思い返せばうつの後にインドにすっ飛んでいってハイテンショーンで帰ってきたり、挙句の果てには留学までしちゃったり、その他にもうつの後にはハイテンショーンが来てるんですよ。これは診断が遅かったのと、寛解してる時期がある程度あっただけで、2度目のうつ診断あたりから双極性だったんじゃないか、と今は思っています。いや、実際はどうか知りませんけどね。双極性障害は診断が難しく、10年以上経ってやっと診断されたりすることも多いそうです。